魂の研磨剤&愛を知るための教材
カルマとはあまり日常において使わない言葉であると思いますが解釈は人様々です。「ひとりひとりに見合った愛を悟り、学ぶための最適な教材」であり、「人生の目的を阻む潜在意識の記憶」であり、「手放す課題」と当サロンは定義しています。
具体的に例えると他者と自分を比較をして「自分はダメだ」と自信を喪失してチャレンジをしなかったり、現実逃避をを繰り返して誰かのせいにしたり、被害者意識を持ち自己責任から逃れたり、嘘をついたり、見て見ぬふりをしたりと自分の真の気持ちに蓋をして誰から見てもどこからみても愛から遠ざかる行為そのものを当サロンでは「カルマ」といいます。
その他にも自己欺瞞・傲慢・意志薄弱・依存・偽善・自己卑下など無数に存在します。つまりカルマは誰の内側にも複数存在し、日常的に人間関係の中でその姿を露わにします。
己を知ることは他者の存在なくして知ることはできません。
人は互いにありのままの自己の姿を映し出す鏡同士です。
人の悩みの大半は「人間関係」。自分自身の様々な思い癖や他者の思い癖に苦しんだり悩んだり、受け入れがたかったり、人間関係をが上手く築くことができないなど、悩みの大半を占めています。家族関係・友人関係・職場関係などにおいて、人によって様々なことに直面します。なぜ悩むのでしょうか・・・その殆どが自己表現を許さなかったり、他者に対して依存的であったり、意思の理解コミュニケーション不足が理由です。
ではそういった悩みから解放、解消するにはどうしたらよいのでしょうか。
それは人間関係の中で喪失した自信や信頼関係、歪ませてしまったものすべては人間関係の中で取り戻すこと。自己表現することを許し、自ら自己を愛し、自己とのコミュニケーションをし、すべてを受け容れることにはじまり、その上で他者と向き合うことで解消することが可能になります。
実はそれが一番のカルマ解消の唯一の術でもあるのです。自分のあらゆる面を知り、醜い面も素晴らしい面もありのまま受け入れていくこと、自己表現力を磨いて、選択を「愛」に変えて、人との間に調和をもたらす愛を深めことがカルマを乗り越え、魂を成長させ、自己進化に繋がっていきます。
自分の在り方そのものが他者に反映されているだけのこと。
それが望みと真逆ならばまずは自分を愛することから始めればいいだけのことなのです。
カルマは愛とは真逆のものであり、闇と捉えることもできます。闇と聴くと人は光と闇を善悪でジャッジしまいがちですが、実はそこに何の差も隔たりもありません。それを善悪とジャッジすること自体がカルマなのです。人は生まれた時から快か不快かで物事を感じ取っています。それは愛か無知かを感じ取っているのです。人は愛を学び体現するために地球に転生した魂です。 「ありのままを受け容れる」「在るものは在る」と認めることこそ、愛の体現者と言えましょう。
だからこそカルマは個々の魂の成長を促すために愛を伝えるために存在していると言えましょう。
カルマを乗り越え、卒業することができた時の喜びは本人だけなく周りをも幸せにします。
すべては意思次第
宇宙は個々に備わっている乗り越えられる力に見合ったものしか与えません。標高日本一「富士山」であっても、登ろうと思う意思さえあれば登れるように望み、行動することで登るためのトレーニングや登り方を教えてくれるナビゲーターという協力者とのご縁は生まれます。乗り越えた者しか見られない風景がそこには広がっていることでしょう。